心配されたくない病の話

 というより、配慮されたくない病のゆらです。
 こんにちは。
 
 さて私はわりと職歴が豊富です、そう職歴だけは豊富なのです。
その中で……障害者という身を明かして働くこともあったし、同時に明かしていないこともありました。
ついでに言うなら、自分がどういう状況か分からず働いている時がありました。
 働いているうちに自分が何者であるかを理解していったのですが、そうしていくうちに私は元からはあったのですが
すごく心配されるのが嫌になりました。ついでに配慮されるのも嫌いになりました。
 配慮に関しては、単純に仕事の関係上出来ないなら、むしろすんな、ついでに言うと障害の配慮が出来ないから首にすんなと言いたくて
たまらないです。人の数倍やって、初めて人一人分の仕事になるという身の絶望感をよく咀嚼してから、その単語を使えと言いたくなります。
まぁ、現実難しいのだろうなとしばしば思うのですが……健常者ですら、春先はとくに精神科によく来るみたいですし。

 私は仕事で難しい面に直面しても、それがうまく言葉に出せないです。文章は雄弁なのに、言葉は不弁です。
だけどそれを人は察することは出来ません。難しいです。
冗談が冗談だと理解できないって普通はないでしょーヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノ
そう思うかもしれません。そうですね、私はそんな自分自身にはどうしようもない面にぶつかると。
とりあえずやけ食いします。ケーキにフライドポテトに、お茶漬け定食に、夕食とか。
食べたいというよりは心のもやもやが苦しすぎて、それを抑えるのに食べないとダメなんです。過食というほど頻繁ではないのですが。
すっごく食べ物に不躾でひどいことをしているなぁとは思います。おいしさも全然わからないし。

 だから人間の皮をかぶった人間じゃないものといえばいいのか、そう、人とずれてしまったものが人間と同じフィールドで動くとなると、
努力が必要だし、納得出来ないというより理解が出来ないこともたくさん飲み込みます。
それでも頑張っても、どうしようもないと……自分は本当に人間もどきだなと感じてしまいます。
障害者にも見られない、でも健常者にもなれない、その狭間のものである私は「はたして人間なのだろうか」と思ってしまうのです。
だから人間になりたくて、それを不可能であるとわかっていても、諦められず、もがいているのかもしれません。

 心配されたくないのはそこからです。心配をかけるということは何かしらで問題が起きたり、不備が起きたりしたことで発生します。
本質的に人とは並べないとはわかっているので、その心配が申し訳なくて申し訳なくて、死にはしないけど、死んだほうが楽な絶望感と罪悪感を持つんです。
 ただまぁ、この点に関しては人からこう言われました。

「私はあなたを心配したいからしているんだよ。どうして心配したいのか、その気持を考えてみて」

「その心配を受け取るか受け取らないかは自由だけど。心配されたことに何か思うなら「感謝」がいいな」

「心配するのはこっちの勝手なんだから」

 すごく心に沁みた言葉でした。
あぁ、そうか。私にはこんなことを言ってくれる人がいるんだと涙が止まりませんでした。

それでもやっぱり私は心配されたくないし、配慮もされたくありません。
やっぱり、死なない程度には頑張って行きたいから、とりあえず頑張るために、頼るということはしたくないんです。
でも私が何かあった時、心配してくれる人がいると思うと、以前より、少し苦しい思いは減った気がします。